F1

F1日本グランプリ

先日三重県鈴鹿サーキットで2018年F1グランプリが開催された。実に鈴鹿での開催30回目だそうだ。F1人気は低迷と言われているが、流石に30回目の節目の時、昨年に増して観客の数が増え、久々にF1らしい賑やかさを取り戻していた。

現在のF1マシンは超ハイテクに武装され、実に複雑な制御が行われている。既にF1マシンを駆るのはドライビングではなく、徹底管理されたハイテクオペレーションと言って良い。ドライバーは走行中にステアリングに付けられた数多くのスイッチやダイアルを調整しながらステアリングに装備されたモニターのデーターを元に各種のセッティングを変える、それも時速350kmをも超えるような速さでの走行中に。しかしコンピューター制御任せの超複雑なF1はそれを造り出すのに大量のリソース(人員・予算等)が必要で、もはや巨大メーカーの傘の下でないと勝てるレーシングカーの製作そのものが出来なくなってしまった。特にその心臓たるエンジン(パワーユニットと言う)はとてもプライベートには手のだせるしろものではなくなった。

 鈴鹿F1で走る様なハイテク・複雑なマシン群を造り出すには実に多くの人員と莫大な経費がかかる。この巨大なリソースでのレーシングカー造り、もはや個人が係われるのは専門的な一部分でしかなく、とても全域に及ぶ事など出来ない話だ。なかには自分の仕事がマシンのどこで使われているのかも解らない場合もあるほど、チームのメンバーは僅か2台のマシンを年間21戦走らせるだけなのに1000人を超える程、天文学的膨大な資金が毎年何十億単位で消費されてゆく。これはもはやチームではなく会社、巨大なF1と言う企業が行う膨大な事業と言うわけだ。したがって各人の仕事は、あくまでも仕事であってレーシングな部分は極めて少なくなっている。

今回の鈴鹿のグランプリ、30回目の記念イベントでレジェンドF1と言うイベントが開催された。過去30回に及ぶ鈴鹿のF1を走り、優勝したマシンなどがレジェンドドライバーの手で実走行したのだ。  考えて見れば30回開催の鈴鹿F1の全戦、そしてその中の最初から4回はチームのメカニックとして現役参加していた筆者である。そしてさらに自慢してしまえば’89年そして’90年には優勝もしているのだ。

’87年に初めて鈴鹿でF1グランプリが開催された時、まだ日本には英語表示は極めて少なく、英語を話す人も稀だった。したがって各チーム初めての日本で悪戦苦闘、コミニケーションが取れず、F1型のシステムの必要性も理解してもらえず、ホンダ関係者を除けば日本人チーム関係者は事実上筆者一人、チームのエキップメントの装備や、電源やガスや空気、レンタカーの手配や食堂のメニューの英語訳・・等々、多くはF1専門用具や用語が使われるので、通常の通訳さんでは技術的な意味が解らず、皆かなり難渋していた。そこで筆者の登場と言うことで開催期間中まるで小間使いのごとく、多くのチームの面倒をみたものであった。

そんな鈴鹿F1創成期、3年目1989年、我がベネトンはB189フォードで鈴鹿グランプリに立ち向かった。レースは知る人ぞ知る、セナ・プロストシケイン激突事件のそのレース。結果セナ・プロストのアクシデントで3位を走っていた我がベネトンB189を駆るアレキサンドロ・ナニーニが優勝、我が故郷日本の鈴鹿で念願の優勝を果たし、そこには結構泣けた自分がいた。

当時のF1マシンは3人のメカニックがほぼ全ての面倒を見ていた。唯一エンジンのセッティング等はエンジンメカニックが行ったがそれ以外の全ては係のメカニック3人で賄っていた。したがって各メカニックはF1マシンのほぼ隅から隅まで熟知していたのだ。メンテナンスの方法にも各人の差があり個性があった。当時はマシンがチームの要求通りに組み上がれば、メンテナンスのアプローチ方法はメカニック任せ、まさにメカニックを信じてメンテを任せる、そんなおおらかな時代であった。したがって担当マシンには担当メカニックの色があった。これは性能ではなく、まさにメカニックの色だ。

このB189が鈴鹿のレジェンド・イベントを走った。それもドライブしたのは鈴木亜久里、翌1990年に日本人初の3位表彰台に立ったその人だ。 B189は実に奇麗にメンテナンスされていた。嬉しいのは自分が係わり、自分の仕事としてレースを走らせてきたそのマシンが、まるで新車のように奇麗な形でそこにあり、鈴鹿を走ったのだ。言わば’89年にやった自分の仕事が30年の時空を超えて今この鈴鹿で、優勝に歓喜したその場で蘇ったのだ。有り難いと思う。今後筆者が人生を終わった後も、きっとこのB189はクラシックF1としてこの世に残り、そしてそのマシンをメンテした自分の仕事が恒久的に生き続けてゆく。F1のメカニック冥利に尽きると思う。鈴鹿で見たB189の雄姿に、まるで旧友との再会を感じてしまった。 「久し振り、お互い元気に生きているなー」とその肩を叩きながら、心の中でB189と言葉を交わし、お互いの息災を喜んだ筆者であった。

津川 哲夫/tetsuo tsugawa
’76に渡英、F1メカニックとして就業。
現在はF1ジャーナリストとして、評論・解説・執筆活動を行っている。

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