F1

ホンダF1からブラウン・グランプリへ、そしてメルセデスに至るという皮肉

 2009年から参戦したブラウン・グランプリはテストから絶好調で、開幕戦ではバトンがポールトゥウィンで優勝。エンジンはメルセデス、車体はホンダRA109という奇跡の組み合わせとなった。後半は開発が進まず苦戦をしたが、見事シリーズチャンピンとなった。BARからホンダF1、そしてメルセデスへ……。今もファクトリーには友人が多い元F1メカニックの津川哲夫氏にそのブラウン・グランプリについて語っていただいた。

文、写真/津川哲夫

■F1のチーム設立に多いのは M&Aによる既存チームの買収

 F1史上、実に多くのチームが登場しては消えていった。そこには巨大なワークスもあれば個人のガレージ・チームもあり、大小様々でバックグラウンドやチームを興すプロセスも異なる。さらには形を変えてF1へのエントリーを何度も繰り返してきたチームや、花火の様に派手に打ち上げて瞬時に消えていったチーム等々もある。

 近年ではチームのM&Aが常識化してきており、株の売買でオーナーが代わったチームがほとんどで、唯一フェラーリだけはチームの形態を変えずに来てはいるが、それでも株式の動きはあり、何度か大型株主の変遷もあったのだ。フェラーリでさえこうなのだから、持ち主の代わらないチームは皆無で、チーム史を辿って見れば、ほとんどの場合複数回チームオーナーが代わっているのが当たり前だ。

 例えばメルセデスは、現在F1界最大手の企業型F1チームだ。もちろん他にもルノー、フェラーリ等がワークスチームだが、メルセデスの企業コミットメントは彼らの比ではない。

 7年連続ワールドチャンピオンを獲得し、現在でもチャンピオンシップ獲得にクリンチしているメルセデスだが、しかしこのチームの歴史は何と今世紀に入ってからなのだ。それもチーム設立僅か12年の新興チームだ。そんなメルセデスも、M&Aによって既存のチームを買収してワークスチームを設立している。

2009年シーズンは表彰台9回、そして6勝したバトン。ダブル・ディフューザーのアドバンテージで驚異的な速さを披露し前半戦を席巻した

■メルセデスの前身となったブラウン・グランプリ

 長いF1史の中でも極めて異例で、おそらく唯一の記録を持つチーム、それがブラウン・グランプリだ。ブラウン・グランプリはたった1年間だけのチームでありながら、その一年でワールドチャンピオンを獲得した異例の記録を持つ、短命のチームであった。

 オーナーは現在のF1を取り仕切っているロス・ブラウン。古くはシューマッハと共にフェラーリ黄金時代を築いた一人だ。

 そもそもこのチームの発祥は、当時全くの新興チームとして登場したBARに起源をもつ。そのBARも出発の原点は、チーム株とコンコードアグリーメントというF1チーム団体内での権利を老舗名門チームであったティレル・レーシング・オーガニゼーションから買い取り、これを新興BARチームでF1内の権利を行使したことに始まる。ただしティレルチームの実体である従業員や工場やマシンは完全放棄されてしまった。

バトンに水をあけられたバリチェロも後半戦は巻き返し、第11戦ヨーロッパGP、第13戦イタリアGPで優勝を飾った。ドライバーズランキングでは3位となった

■ティレルがホンダ・テストチームとして継続されたが、本命はBARだった

 捨てられたティレルチームはその後1年間だけホンダ・テストチームとして継続されたが、ホンダも近代的でアメリカンシステムなBARになびき、自製チームを諦めてエンジン供給という形でBARへと移っていった。つまり旧ティレルはBARのチーム購入で捨てられ、ホンダに拾われても1年でこれもBARに搾取されてしまったわけだ。

 弱小勢力が巨大勢力に押しつぶされてゆくF1的な弱肉強食社会の縮図を描いて見せたBAR。しかしこのチーム誕生の目的自体がF1ではなくビジネスオンリーであり、初期にはブリティッシュ・アメリカン・タバコから巨額の資金を調達、そして2000年に前出のホンダを手に入れ、ここでもホンダの膨大な資金を追加。さらに2005年には全株式をホンダに巨額で売却し、BARのF1ビジネスプロジェクトは天文学的金額の成功を収め終了した。

 後はホンダへと移行するも、経営的にもエンジニアリング面でも大きな成功を得る事なく、2008年、世界規模の経済恐慌で会社経営に深刻さを増した事からホンダはF1から撤退する。

■売却額はたった1ポンド。チームはそのままロス・ブラウンに譲渡された

 チームが譲渡され、ブラウン・グランプリが登場。チーム名とリーダーはロス・ブラウンであったが、基本はブラウンを含む6人の重役にチームの権利はあり、ブラウン・グランプリ発進時から既にチームの売却プランが動いていたという。ホンダ撤退を受けて搭載エンジンはメルセデスの供給を受ける。この時点でマクラーレンとの関係が悪化し始めていたメルセデスは独自のチームを模索しはじめており、メルセデスとF1の関係を失いたくない当時のF1のボス、バーニー・エクレストン等の支持もありブラウン・グランプリはメルセデスへと向きを変えていった。

 そして2009年、ホンダのエンジニアが最初のアイデアを出したといわれるダブル・ディフューザーを搭載したBGP001は、初戦からレギュレーション的に物議を醸しながらも、ダブル・ディフューザーに特化したマシンを造り上げたことで強烈なアドバンテージを持ちシーズン前半を席巻。

これがブラウン・グランプリを優位にしたダブル・ディフューザー。しかし、各チームともダブル・ディフューザーの開発を進め、なかでも特にレッドブルの戦闘力が高く、後半戦ブラウン・グランプリを苦しめた(イラスト津川哲夫)

 このシステムが適法と認定されてから開発を始めた他チームが、後半戦で追いついて来るまでは勝利していたが、追いつかれると基本車体性能の高いライバルにくだされるようになってしまう。それでも何とかチャンピオンを死守しF1史の記録を作ったのだ。

■ホンダからメルセデスワークスへ。緩衝材となったブラウン・グランプリ

 ブラウン・グランプリの存在は、ホンダの後始末とその後のメルセデス・ワークス発進の緩衝材的期間を受け持つ意味もあった。実際メルセデスがワークスとしてチームを始めるのに、いきなりホンダワークスから購入するわけには行かないのは当然だろう。

 そして購入条件はやはり好成績のチームでなければ、メルセデスの経営陣や株主達がゴーサインを出すわけはない……。

 現在のメルセデスに至るこのチームの歴史は、技術論争ではなく、ビジネスと政治によるとてつもなく巨大な経済プロジェクトが渦巻き、その台風の目がブラウン・グランプリであったといったら、それはいい過ぎだと叱られるだろうか……。

TETSUO TSUGAWA
TETSU ENTERPRISE CO, LTD.

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